得意を武器に、
技術で人の心を動かす

株式会社インディゴデータ(以下IDD)と共に働いてくれているパートナーへの内部インタビューをご紹介します。
ここでは、PigDataに関わる人たちが、どのような人生をあゆみ、どのような想いでPigDataに取り組んでいるのかを赤裸々にご紹介します。
インタビュー第4弾は、興味深い経歴を持っていると噂のエンジニア、菅原岬さんにお話を聞いてみました。
独学で始めたヨーヨーで公式のイメージキャラクターに
子供時代はどんなお子さんでしたか?
菅原:家からあまり出たがらない子供でした。人ともあまりしゃべりたがらず、外にいると体調が悪くなることもあって、すぐに家に帰りたがっていました。
旅行もあまり行かないですし、観光してリフレッシュしようと思ったことも特にないです。気分転換も家の中でできることを探していました。
そんな中で、何か夢中になったことはありましたか?
菅原:11歳のとき、将来について考えるタイミングがあって、その頃ちょうど株式会社BANDAIがハイパーヨーヨーのブームを起こしていたんです。当時、人とかかわる仕事に就くイメージがまったく持てなくて、生活できる技術を探していた中で、ヨーヨーに出会いました。
ヨーヨーにはどのくらい熱中されたんですか?
菅原:11歳で始めて、最終的にハイパーヨーヨーのイメージキャラクターに抜擢されました。
ええ!私が小さいころハイパーヨーヨーでよく遊んでたので、まさかイメージキャラクターだったなんてびっくりです!

そういったヨーヨーのスキルは教えてもらって身に着けたんですか?
菅原:独学で習得しました。独学でやらないとオリジナルっぽいことできなくなる、と思って一人でやってましたね。
独学でそこまで成長するのはすごいですね!ヨーヨーのイメージキャラクターに抜擢されるまでどのような活動をされてたんですか?
菅原:ジャグリングのパフォーマーとして生活していて、遊園地やレストランなどの催しに呼ばれたりしてました。まあ、その場を盛り上げる人ですね。
そういう活動をしていたので、企業の人も「この人いいんじゃない」と思ってくれて、それで声をかけてくれたみたいです。
いつからジャグリングなどのパフォーマンスでお仕事に呼ばれていたんですか?
菅原:14歳くらいから自分で路上パフォーマンスをしてお客さんを集めて、そこからいろんなイベント会社の人と知り合ったりしてました。
14歳の頃からなんてすごいです…!若いころから将来のことを考えて行動されてて、すごくそこが興味深いというか菅原さんらしさでもあるのかなと思いました。
ちなみに今もヨーヨーなどは続けてらっしゃるんですか?
菅原:そうですね、仕事の合間などに息抜きとしてやっています。
パフォーマーから一転エンジニアに
パフォーマーとエンジニアって結構真逆な仕事かなと思ったのですが、どうしてエンジニアになろうと思ったのですか?
菅原: ヨーヨーやパフォーマンスの仕事をしていたときに怪我をして、続けられなくなったんです。それで他の技術職を探しました。親がエンジニアだったので、自分にもできるかもしれないと思い、エンジニアの道を選びました。
パフォーマンス業界からエンジニアって全然かけ離れているように見えるんですが、実は結構共通するところがあって、例えばパフォーマンスの見せ方を組み立てていく作業とかはエンジニアリングと似ているんです。パフォーマーをやっているときも演出を考えたり、組み上げていく作業が一番好きでした。なんなら見せるのは別に好きではなかったです笑。
ステージの演出を作ることが好きだったので、そういう点では、次に何かやるとしたらモノづくりのような方向性だなと考えていました。なのでパフォーマンスもエンジニアも「いいものを作る」という点においては本質はあまり変わらないと思っています。
なるほど。確かにパフォーマーとエンジニアは似ている部分も多そうです。
ちなみにエンジニアのスキルも独学で身につけられたんですか?
菅原: はい。独学のコツとして、物事を自分で整理する癖をつけるようにしていました。ヨーヨーのときと同じように、何かを体系的に学ぶのは得意でした。

現在業務委託のような形で菅原さんに仕事をお願いしていますが、パフォーマーをやめてからすぐにフリーランスで働いていらっしゃったんですか?
菅原:実はハイパーヨーヨーを引退した後、会社員になったことがあるんです。もともと人と関わることがあまり得意ではなかったため、人と関わる機会が少ないという理由でパフォーマーの道に進んでいたので、エンジニアになってからも人と関わることが少ないフリーランスになろうと考えていました。
なのになぜ会社員になったのかというと、独立した場合、その時の自分のお客さんは会社勤めの人たちになるため、会社で働いた経験がないままではお客さんの空気感などが分からないかもしれないと思い、会社員として働くことを選びました。最初から入社するときに独立することを会社の人にも伝えて、「上場させたらやめます」といって実際にその会社が上場するタイミングで去りましたね。
すごい!有言実行って感じですね!
その会社ではどんなお仕事をされてたんですか?
菅原:インターネットの事業部を一から立ち上げて自分メインでいろいろ進めていきました。
では育成のようなこともされたんですか?
菅原:確かに育てなきゃいけないタイミングは来たんですが、やはりどうしても苦手で、そこは部下に任せていました。
仕事を進める中でオールラウンドに何でもできる人間になれるんじゃないかなと思ってたんですが、やはり現実はそう上手くはいきませんでした。会社を大きくしていかないといけなかったので、効率的に利益を生み出すにはどうしたらいいか考えていくと、最終的に自分ができないことはやらない方が良いという結論になりましたね。なので独立してからも自分の得意分野を武器にしていきました。
では独立した後、IDDに?
菅原:そうですね、面白い人いないか探していた時に大藏さんに出会いました。大藏さんとは共通点が多くて、実際に会って話してみても、この人とは気が合うなと感じました。気が合う人と仕事ができるという点も独立した特権だと思っているので良かったですね。

ターニングポイントは東日本大震災後のステージ
では、人生のターニングポイントはやはりエンジニアになった時ですか?
菅原:それもありますが、もっと自分の中で大きかったのは25歳のときですね。そのときに、ハイパーヨーヨーのイメージキャラクターに抜擢されたんですが、ほぼ同じタイミングで東日本大震災が起きました。その後、福島の被災地から多くの家族の方が自分のステージを遠くまで見に来てくれたんです。
震災でお金も家もない状況の中、それでも自分のステージを見に来てくれた方々の姿を見てなんかすごく嬉しかったんです。「あ、やっててよかった」って感動しましたね。そのとき、自分が考えたことや磨いた技術が誰かの心を動かし、希望を与えることができたんだなあと強く実感しました。

それが、技術に対する意識を変えるきっかけになったんでしょうか?
菅原:そうですね。言葉にするのがなかなか難しいのですが、それまでは、自分の技術を本当に信用していたわけではなかったんです。
これまではなんとなく目の前にいる人たちにパフォーマンスを見せて、投げ銭をもらっていて、その場のノリで稼いでいる感覚があったんです。頑張ってはいるけど、本当にいいと思ってるのかな、遊園地やショーの空気感に支配されているだけなんじゃないかなと思いながらやってました。
それでもお金をもらえること自体は素晴らしいことだとは思うんですが、どこかで、本当に自分の技術を見てお金を出そうと思ってくれたのかなと考えていました。
でも、大震災が起きて、お金も家もないはずの子たちが見に来てくれるっていうのが、真実味を帯びた気がしました。本当にいいと思わないとここまでしてくれないよな、と。「もうちょっと自分の技術に誇りをもって作って見せていこう」と確信に変わったのがこの時でした。
「自分の技術に誇りを持つ」ということは今のエンジニア職にも繋がっているんでしょうか?
菅原:そうですね、自分の技術に誇りを持つことで今も進行形でモチベーションをキープできています。
理想の働き方は自給自足
現在、IDDではどんな業務を担当されているんですか?
菅原:主にクローラーやデータ管理アプリケーションを作っています。
クローラーを専門にされているのは、どういった理由からですか?
菅原:独立するときに、クローラーを作ることに特化しようと決めていたんです。食べていく手段として、効率や競合の少なさを考えての選択でした。
結果的にIDDがクローラー技術を必要としていたので、ちょうどマッチしました。
エンジニアになっても自分の技術で人々を幸せにしているんですね!
菅原:そうかもしれません笑
理想の働き方などはありますか?
菅原:理想形は「自給自足」ですね。なるべく自分で何かを生み出して、それを売る、というサイクルを食べ物や仕事においてもそれで完結したいと思っています。
自分はあまり人に頼ることができない性格なので、可能な限り自分で解決したいと思っています。その能力を高めるためには「自給自足」なのかなと….
あと、理想とは少し違うかもしれませんが、昔も今もIDDが大好きなので、大藏さんやみんなに協力したいという気持ちはずっとあるので、今後も一緒にお仕事を続けられたらと思っています。
菅原さんの技術にこれからもたくさん頼らせていただきます!
菅原さんの貴重な経歴、大変興味深かったです!ありがとうございました!
